空山羊不見

ソラニヤギヲミズ

「風立ちぬ」は全然生きめやもじゃない

Le vent se lève, il faut tenter de vivre

風立ちぬ、いざ生きめやも


映画の冒頭で二つの文章が示される。前者はポール・ヴァレリーの詩「海辺の墓地」の一節で、直訳すると「風が立った、生きることを試みなければならない」、後者はそれを引用した堀辰雄の小説「風立ちぬ」の一節で、直訳すると「風が立った、生きなければならないのかなあ」になるらしい。フランス語も古文も読めないのでらしいとしか書けない。

どうして引用なのに意味が違ってしまっているのかについては、誤訳だとか意訳だとか色々な説があるが、私は意訳説を推したい。

というのも、堀辰雄の作中で出てくるのはこの「風立ちぬ、いざ生きめやも」の一節だけであって、大事にされている言葉なのは確かだけれど、何の詩だとかどういう意味だとかいう説明は一切ない。その代わりに、作品後半になると全然別の詩ががっつり引用され始める。リルケの「レクイエム」である。

ヴァレリーの海辺の墓地もリルケのレクイエムもすごく難解な詩で、どういう内容かかんたんに書くのは恐れ多いのだけど、超主観で書くと

・「海辺の墓地」は、自分の内面の激しい葛藤の末、生きなければならないという強い意志に辿り着くうた
・「レクイエム」は、死んでしまった者との苦しい対話の末、彼らにやさしい言葉をかけていくうた

だと思う。

どちらも死のイメージは持っているが、全然違う。

そして、堀辰雄の「風立ちぬ」がどちら寄りかというと、圧倒的に「レクイエム」なのだ。物語のヒロイン・節子のモデルになった堀の恋人はすでに亡くなっていて、これは天国の恋人のくれた思い出と喪失をできるだけ美しく丁寧に残そうとして書かれた小説だ。「生きることを試みなければならない」という強い言葉は、死者を見つめて書かれた物語には似合わない。「生きめやも」くらいで、きっとちょうど良かった。

ややこしいけれど、堀辰雄は「海辺の墓地」の原文を冒頭に引用しておきながら、実は終盤に出てくる「レクイエム」の目線に寄り添って物語を書いていたらしい。「生きめやも」のフレーズは、もしかしたらレクイエムへの登場への伏線だったのかもしれない。

そして、今日観た映画「風立ちぬ」がどちら寄りだったかというと、圧倒的に「海辺の墓地」だった。冒頭の「生きめやも」は何だったのか問いかけたくなるくらい海辺の墓地だった。観てる途中で思い出したけれどそもそもキャッチコピーが「生きねば」だった。答えは出ていた!

内容的にも、例えば主人公の飛行機設計士・堀越二郎の読んでいる本のページが凄い勢いでめくれたりとか、ターニングポイントのシーンで風が巻き起こったりとか、アキレスと亀の話だとか、ああこれは海辺の墓地へのオマージュだなと思えるシーンがたくさんあった。二郎と仲間たちが飛行機を作る夢を追いかけている姿からは、「時はきらめき、夢は知となる」のフレーズを思い起こさずにはいられなかった。
二郎も、劇中で「生きめやも」という言葉はいっさい口にしない。ヒロイン・菜穂子とのヴァレリーの詩のやりとりのあと口にするのは、直訳の「生きることを試みなければならない」だった。

 

映画のメインテーマはたぶん、これから死にゆく者からこれから生きていく者への、この「生きることを試みなければならない」のメッセージだろう。だから二郎の声は、いくら声優経験が無くても棒読みでも、これからも苦しみながら沢山映画を撮るだろう庵野監督の声でなければいけなかったし、菜穂子は二郎を生かすために精一杯美しくあろうとしたし、二郎の夢に出てくるカプローニさんは二郎を励まし続けた。
ヴァレリーの「Le vent se lève, il faut tenter de vivre」のメッセージをキャッチした堀辰雄は、それを死者を見つめることで「風立ちぬ、いざ生きめやも」にして作品を作ったけれど、さらにそれをキャッチしたジブリは死者に近い目線に立つことで「風が立った、生きることを試みなければならない」に戻して作品を作ったのだろうと思う。

そして、死にゆく者の目線から見る二郎とその飛行機は美しかった。浮世離れしていて、悲劇から目を背けて理想ばかり追っているように見えた二郎が本当は現実を知っていたことが、ラストシーンではっきりわかる。作る飛行機は次から次へと死骸になるし、だれかを幸福にはできないし、二郎のもとには一機も戻ってこなかった。けれど、それでも美しいとカプローニは言った。これは監督の本心だと思うし、観ていたわたしにもそう見えた。

堀辰雄の「風立ちぬ」が生者から死者への心を尽くしたラブレターだとしたら、ジブリの「風立ちぬ」はきっと、死にゆく者から生きていく者への心を尽くしたラブレターなのだろう。

 

※以前(2016年頃)にTwishortにアップしていたものを少しだけ改稿しています。